神社建築あれこれ|出雲大社の神棚は藤本木工芸へ

top > 神社建築あれこれ
神社建築についてご紹介します。
 

●大社の建築
出雲大社はむかしは絹築の大社(オオヤシロ)とよばれ、延喜式の神名帳にもこの名で記載されている。しかも、『大社(オオヤシロ)』と呼ばれているものは、当社だけなのである。昔から山といえば富士、花と言えば桜を指していたように、大社とさえいえば、人はみなわが出雲大社を想いうかべたのである。
われわれ日本の古い伝承では、アマテラスオオミカミは第一の御子アメノオシホミミノミコトの御子ニニギノミコトをして、オオクニヌシノカミの奉献したこの国土に降さしめて統治することを命じ、第二の御子のアメノホヒノミコトにはオオクニヌシノカミを祭神とする天日隅宮(アメノヒスミノミヤ)の祭祀をつかさどらしめたという。天日隅宮とは当社の古典でのよび名であり、アメノホヒノミコトは出雲国造すなわち大社の宮司家の祖先だとされている。大社の造営にあたっては柱は高く太く、板は広く厚く、千尋の栲縄で百八十紐に緊縛したというのが古伝であるから、古くから広大豪壮な建築であったと思われる。
ところで『万葉集』には「社」の字をモリともヤシロともよませている。鬱蒼と樹の茂ったモリは即ち神の坐します社であった、ということなのである。
 ・山科ニ石田ノ杜(モリ)ニ手向セバ ケダシ吾妹ニタダニ逢ハムカモ(巻9の1731)
 ・神奈備(カムナビ)の伊波瀬(イハセ)ノ杜(モリ)ノ閑古鳥
   イタクナ鳴キソワガ恋マサル(巻8の1419)
がその例である。
 ・木綿(ユフ)カケテ斎フコノ神社(モリ)
   超エヌベク念ホユルカモ恋に繁キニ(巻7の1378)
の場合のように、神社はまたモリとよまれてもいるのである。
ヤシロという言葉をそこで正確に知っておく必要がある。シロという言葉をもった語としてはたとえばタシロ(田代)がある。田とすることのできる場所のことである。ナエシロ(苗代)とは花を育てる場所である。アジロ(網代)は縄を張る場所である。ミタマシロ(御魂代)といえば御魂(ミタマ)の憑りつく物のことである。とするならば、ヤシロとは屋代であり、臨時に屋根をしらつえて神祭りをする場所のことである、とこのように伊ことができる。収穫を感謝する霜月祭りの夜は、祭に集う人たちの着衣に霜がおり、寒さはひとしお身にしみる。神は人の期待と要請にこたえて祭りの庭に来臨されるのであるが、祭りがすめばまたもとの高天原に戻られる。屋代の屋はそこへ来臨する神に侍するべく相集った人々のために、臨時にしつらえられるのがおそらくは最初の形で、その屋は祭りがすめば撤去されるのであった。奈良県の大神(オオミワ)神社や埼玉 県の金鑚(カナサナ)神社が拝殿だけをもち、神の坐します本殿を持たぬ というのは、こうした古いヤシロの姿が今日に伝えられているのである。大神神社では秀麗な山容の三輪山を神奈備(カンナビ)即ち神体として、金鑚神社は御室岳を神体として祭祀が今日も執り行われているのである。
スサノオニミコトは高天原から追われて出雲の斐伊川の上流、鳥神(トリカミ)というところに降り、大蛇を退治してイナダヒメとの聖婚ののちには、再び天上に戻るということなく、「吾ガ心スガスガシ(スガスガ)シ」と申されて、出雲の須賀の地に宮を営まれたという。昔から祭りのたびに招迎されては高天原から降り、祭りがすんで再び高天原に戻るを例とする神は、やがてわれわれの社会に常在することを要請され、地上に留まるものと考えられるようになるにつれ、神の住居として宮(御屋・宮)が営まれ、これをヤシロとよぶようになってくるのである。国々に散らばる多数の神社はモリでありヤシロであって、ミヤとはよばれない。ところが出雲大社はその起源からして、祭神オオクニヌシノカミの坐しますところ、即ちミヤとして営まれているのである。とか厳神之宮(イツカシノカミノミヤ)、あるいは天の下造らしし大神の宮とか、出雲大神宮(イズモノオオカミノミヤ)とか、このようにつねに「宮」と称されていたということは、注意して注意し過ぎるということはない。出雲大社がわが国で最も古い社であり、したがって世の神社とはそのカテゴリーにおいて異にするものがある、ということなのである。
さきにいささか述べるところが有ったように、神話の時代はさて措き、人の代となって始めに出雲大社が登場してくるのは、第11代垂仁天皇の御代のことである。御祭神が天皇に夢のうちに教を垂れて、天皇の悩みとされるところの、天皇の御子ホムチワケが唖であることも、大神の宮を天皇の御殿のように立派に建造すれば、御子の口はきけるようになるであろうということであったので、天皇はその宮殿にまけぬ 壮大な社殿を造営したというのである。神話にいう天日隅宮のときの話をば、神代に推し及ぼしたものであったのかもしれない。
次の大社の造営はわが社伝では、日本書紀の斉明天皇の5年の条に見るところの、出雲国造に命じて厳神(イツカシノカミ)之宮を修造せしめたことであるとしている。この記載はわが大社のことではなくして、意宇郡の熊野大社のことであろうと今日ではいわれていることは、先にこれを記したところである。
大社の社伝では、本殿の高さは上古は32丈、中古は16丈、斉明天皇の第2回の造替から今日のように高さ8丈、方6間4面 の規模になったという。そしてこの高さが8丈に達しないときは仮殿式とよび、8丈の高さをもつ正殿式の社殿と相対して考えてきている。現在の本殿の造られた延享元年(1744年)まで、25回の造替があり、その後は文化6年(1809年)、明治14年(1881年)、昭和28年(1953年)と3回の修理を加えて今日に至っているが、この間、中性の弘安5年(1282年)から慶長14年(1609年)までおよそ330年の間は仮殿式であった。この意味で仮殿式から正殿式に戻った寛文7年(1667年)の造営というのは、わが大社史上まさに特記すべき造営であって、このときの松江藩主松平直政公の篤信と熱意あってのことであるが、第68代尊光(タカミツ)国造の苦心は察するにあまりがある。尊光国造の遺した国造館日誌とそれに収められた寛文国造の記録は、世の関係学者の注目するところとなっている。

▲このページのトップへ戻る

現在の本殿の高さは8丈(24.2メートル)、神社建築の中でも他に比類を見ぬ 規模の豪壮さである。ところがこの本殿は昔に溯及すればするほど高く、最も古くは32丈(98メートル)もあったというのであるから、人は半ばは驚き、半ばは疑うというのが実際である。およそ物事は、簡単なものから複雑なものへと推移する。飛鳥町から奈良町にかけて寺院の瓦の推移を見てもこの感を深くする。建築にあっても同様で、小さいものから大なるものへと推移し発達を見せるというのが例であるべきであるが、大社の古伝はこの逆だというのである。しかしながら、大社本殿の背後に秀麗なたたずまいを見せる八雲山が、大和の三輪山のように、かつては大社の神体山であったとすれば、この32丈説もあながち、全く根拠のなお無稽の話だとはいえないだろう。八雲山は古くは「蛇山」とよばれて幽邃な印象を与えるのみならず、むかしも今も渝(カワ)ることなく禁足地として、たち入ることは許されていない。
しからば16丈説はいかがであるかというに、あながち架空の説とはいえないのである。明治41年と翌2年にわたっての、建築史学の伊東忠太博士と神道学国史学の山本信哉博士との間で、大社の高さをめぐって白熱の論戦がかわされた。伊東博士は建築技術の上から入って、古い昔にそのように高い建造物はありえないというのであるが、そのとき山本博士は伊東博士の説に反対して16丈説の根拠として挙げたのが、平安初期の天禄元年(970年)につくられた『口遊(クユウ)』の解釈である。『口遊』とは当時の社会常識を幼童にも誦習しやすいようにまとまたものであるが、その中で「謂(イ)フココロハ大屋ヲ誦スルナリ」として、「雲太 和二 京三」と記してあるのである。太・二・三という記しざまは『口遊』のうちの他の用例からして、順位 を表していると思われる。そしてこの『口遊』には今案ずるにといって「雲」は出雲国城築大命神神殿、「和」は大和国の東大寺大仏殿、「京」は京都の大極殿八省を指すとして注を施しているのであるから、杵築の社の本殿の方が、東大寺の大仏殿よりも高いということをいおうとしているのだということになる東大寺の大仏殿の高さは15丈というのであるから、わが出雲大社は社伝の通 り16丈あったとする説は、このようにして無稽な説だとはいえなくなるのである。
平安時代が終り、世は鎌倉時代に入ったばかりの頃、杵築の大社を参拝した寂蓮は、
 ・ 出雲大社ニ詣デテ見侍リケレバ、天雲タナビク山ノナカバマデ、
  
カタソギノミエケルナム、此ノ世ノ事トモ覚エザリケル。
といって、
 ・ やはらぐうる光や空にみちぬらむ 雲にわけ入るちぎのかたそぎ
とその驚きを詩に詠んだのであった。千木の先端が垂直に切りおとされているのを、「ちぎの かたそぎ」と申したのであって、しかも本殿背後の八雲山の高さはよおそ36丈というのであるから、16丈という社伝の必ずしも訛伝ではないということの、一つの傍証とも言ってよいのであろう。
大社には「金輪造営図(カナワノゾウエイズ)とよぶ、むかしの神殿の図というものを伝えている。本居宣長に従って学んだ千家国造家出身の、梅の舎千家俊信(トシザネ)が宣長に示し、宣長がこれを「玉 勝間」13の巻に収めたところから、広く世に知られるようになった古図である。
  此図、千家国造ノ家ナル写シ取レリ、心得ヌコトノミ多カレド、
  皆タヾ本ノマヽ也。今ノ世ノ御殿モ、大カタノ御構ヘハ、此図ノゴトクナリトゾ。
と宣長は書きつづけている。
この金輪造営図の意味するところは、大社の神殿があまりにも巨大であるため、建造な必要な長大にして且つ太い柱材を得ることができぬ がまま、三本の柱を鉄の輪で緊縛して、巨大な高楼を支える一本の柱とした、ということを表すものなのである。江戸時代に建造され現東大寺大仏殿や、今日遺る封建大名の城の天守閣の柱には、こうした手法になる柱が高い屋根を支えている例を見るところから、この金輪造営図は近世になってのものだという批評を聞くこともあるが、建築学の福山敏男博士は、この図様の合理的なことや、用語の古さなどからいって、上代以来鎌倉期の初めまでつづけられた正殿式の復元図を作成し、これを発表されたのであった。
大社はまこと「天下無双の大厦」であった。それだけにまた、平安中期から鎌倉初期まで200余年の間に前後7回も顛倒のことがあったと伝えられている。長元4年(1031年)8月には風もないのに神殿が振動して材木は中より倒れ伏し、ただの乾の隅の1本のみは倒れず、とある。中より倒れ伏したというのはつまり折れたということなのである。隅の一本は倒れずにあったというのは、堀立柱であったがためである。顛倒の事例は康平年(1061年)、永治元年(1141年)とつづき、神殿が小規模となってからは、こうした不祥のことはなくなっている。
さきにも言及した千家国造家に伝わる「出雲大社近郷図」によって大社の神殿を見るに、今日の大社神殿に見るような、周囲の回椽を支える椽束(エンヅカ)を欠き、回椽は9本の柱から持ち出されて空中に浮かぶという姿をとっている。したがって9本の柱には水平貫(ヌキ)を通 して固定するという手法を執らぬが故に、横からの風圧に対してはきわめて脆弱なる構造というべく、顛倒を免れぬ 所以である。
伊勢の神宮は20年ごとに正確に造営を繰り返しているが、わが大社では、遷宮造替の間隔はきまりがなく不規則である。30年から50年を超えたこともあった。これというのも巨大な聳えるばかりの用材は容易には得がたいということもあって、神宮のような式年遷宮は営むことができず、腐朽による倒壊の危機がさしせまったときとか、顛倒によるやむを得ざる事態に直面 するまでは、造替はさし控えねばならなかった、ということなのであろう。堀立柱の神宮と違って、大社は慶弔14年(1609年)の豊臣秀頼による造営のとき、柱の下に礎石を置くことにした。爾来、大社の遷宮は屋根の葺き替えだけということになっている。

▲このページのトップへ戻る

大社の本殿は切妻造の妻入、正面・側面とも柱間(ハシラマ)は2間、屋内の中央にも「心(シン)ノ御柱(ミハシラ)とよばれる柱があり、すべて柱は9本、いわゆる田の字型の間取りとなっている。遠き世の住居の構造なのである。正面 の柱間が2間で、正面の中央に柱があるのであるから、入口はいきおい片側に寄らざるを得ない。大社では正面 向かって右の柱を入口とするので、そのためにも階段も右に片寄っている。ところで切妻造平入り、柱間が正面 は3間、側面は2間、正面中央の柱間に入口を設ける伊勢の神宮にあっては、階段もまた中央にしつらえることができるのと大きく違う点である。神宮は高床の穀物倉の形式を踏むのである。
大社の内部は、中央の心ノ御柱と右の側柱との間に間仕切柱があって、入口の扉を進むとこの間仕切柱に衝(ツ)き当るので左に向きをかえ、さらに右に向きをかえて奥に入り、ここで始めて間仕切柱のうしろの御内殿(ゴナイデン)の神座に相応することになる。御内殿の神座は南面 せずして西のかた稲佐の浜の方向に向く。したがって正面の参拝者に対して、祭神は横に向いているということになる。まことに不思議な構造であるといえよう。
しからば、どうしてこういう不思議なことになっているのか。これについては、関野貞博士は、古代住宅の様式を大社が忠実に伝えているからだと説明した。即ち入口の扉を入った室が玄関で、その左手が客間、その奥が家族の居間であり、御内殿は主人の居間なのである。古来、囲炉裏(いろり) を囲んで、どういう座が昔から決められているかを考えてみればよい。囲炉裏の4周、最上席まで主人だけで坐ることのできる横座は、たとえば南の入口から入って右手に炉があるとすれば、横座は必ず西に向いて在るということになるのである。こうした横座にあたる位 置に、御神座が設けられていることがわかるであろう。そこでもし炉が、南の入口から入って左手に設けられていたとすれば、横座は東の方向に向くということになるであろう。神魂(カモス)神社がこの形式をとることは、またよく人の知るところである。大社が神魂神社の様式をとらずに、神座が西面 しているというわけは、大社の西方稲佐の浜を通して、遠いむかし、西方九州方面 からの文化の流れということを思わねばならないであろう。オオクニヌシノミコトが筑前宗像の奥津宮に坐す神、タギリビメノミコトを娶して、御子のアジスキヤカヒコネノカミを生んだという古事記の伝承が、ここに想い合わされてくるのである。
大社の境内摂社3社のうち、本殿から西方に坐す筑紫社がとりわけ建築が丁重であり、大社の注連縄(シメナワ)は一般 の社の場合と違って、向かって左を綯(ナイ)始めとし、向かって右が綯終りとなっていること等々は、いずれもわが大社にあっては西の方向を尊重するという、むかしからのしきたりが生きていることを語るものである、と先に述べたのであるが、このことと無関係ではないであろう。
大社本殿の9本の柱については、その長さ、太さをそれぞれ異にしている。中央にある「心ノ御柱」は長さ6間半、型尺6寸、正面 と背後の中央の柱は「宇豆柱(ウズハシラ)」とよばれて、長さ8間半、径2尺8寸8分、左右両側にある6本の側柱は長さ6間半に径2尺4寸、ということになっている。このような太さや長さが一様でないのは、柱の位 置による構造上の役割が精神的意義を別にするがためなのである。位 置による構造上の役割は、大社の平面図や本殿の写真により、これを理解するに困難はないが、ここにいう精神的な意義とは、しからば何であるか。
「心ノ御柱」に次いで太い正面並びに背面の「宇豆柱」は、その柱の中心は側面 隅の柱の中心を結ぶ線より大きくずれて、梁で截られることなく、真直ぐに棟木を支えているが故に、大社本殿の姿そのものが豪壮無比の観を人に与えずにはいないのである。こうした中心のずれは、神魂神社本殿は大社よりも著しいものがある。ところが大社に伝える金輪造営図では、このずれは神魂神社のそれよりもまだ大きく、柱の中心からほぼ5分の4近くが外に持ち出されている。そこでこの宇豆柱は、伊勢の神宮の棟持柱と同じ役割を有って棟を支えていたのであって、当初にあってはおそらくは、現に神宮に見るように、建物から離れて独立に立っていたものと推定されるのである。1つの証拠になるといってよい。このことは逆にいうと、金輪造営図が、決して新しい時代の制作にかかえるものではない、ということになるのである。現在の大社は、配電は本殿に正対せず、心ノ御柱と宇豆柱とを結ぶ線よりも若干東にずれて位 置している。これというのも拝観者が拝殿から北方に視線を向けて、宇豆柱を通 して祭神を拝するという形をとっているのであって、宇豆柱がいわば祭神の象徴というように考えられているのである。
ところで金輪造営図にあっては、心ノ御柱は「岩根御柱(イワネノミハシラ)」と記され、棟持柱にあたる宇豆柱についてはその名の記入を欠く。慶弔造営のときの平面 に写したという「匠命(ショウメイ)」の大社の図には、岩根御柱について「ウズノ柱」という記入がある。このことはわが大社にあっては、中心の柱にだけもともと固有の名が与えられていらのであったが、ある時期になって神宮の「心ノ御柱」の名に倣(ナラ)って中心の柱を「心ノ御柱」とよぶこととし、神祭に関する崇敬の念と、目を見張るばかりに豪壮雄偉なる棟持柱に対する異敬の念とがからみ合い、ここに「宇豆柱」という名が、生まれるようになってきたのであると思われる。

▲このページのトップへ戻る

◎杵築と気多
金輪造営図には正面階段にあたるところを図示して、「引橋長サ一町」という記入がある。意味するところまことに深い。
大社の位置は背には八雲山、左右に鶴山と亀山をひかえ、前半は平坦な砂地、地下水は質がよろしくないので、御手洗いの水は八雲山から引いているのである。社伝によると今の本殿の位 置はむかしはもっと前方で、ただの今の拝殿のあたりであったという。戦後拝殿を新築するとき、地下を掘り下げたところ堀立柱が出土し、その下方はもとは海であったことが証明された。
おそらくは、今の島根半島が島だったころ、本渡との間の海峡ー西村真次博士は、いみじくも素戔鳴(スサノオ)海峡と名づけたーを通 過する船は、日の御崎から杵築の海に入り美保へぬけたことであろう。その内海に鎮座する大社に一町の橋が架けられてあったというのは、稲佐の浜から一町ほども長い桟橋ができていた、ということなのであろう。福山敏男博士は、高さ32丈の大社神殿の復元を考えられたが、これを桟橋と考えることもまた可能なのではあるまいか。
島根半島が陸続きではなかった遠い昔の素戔鳴海峡、この海峡を通 過する船を見守る位置にあるのが、杵築の大社であるとするならば、この杵築と地理的背景が酷似するのが能登の気多(ケタ)である。能登半島と本土を結ぶ邑知潟(オオチガタ)の地溝帯は、そのむかし日本海と七尾湾を結ぶ海峡であった。この海峡の入口に鎮座するのが能登の一ノ宮気多神社(ケタノカミノヤシロ)である。神祭は大社とひとしくオオクニヌシノカミである。第10代崇神天皇の御代の創祀という社伝はともかく、遠いそのむかし、日本海峡に乗って越路方面 まで発展した出雲の人々が、郷土と同じような景観の地を見い出して、ここにオオクニヌシノカミを祀ったということも、肯けることである。ヤツカミズオミツヌノミコトの国引きの詞章にも、出雲の美保の埼は高志(コシ)の都々(ツツ)の三崎から引いてきたものであるといっている。能登半島の珠洲(スス)岬のことである。

◎神明造と大社造
大社に対比される神社建築は、伊勢の神宮の様式すなわち神明造である。
大社造は、神の住居がそのまま神殿となったのであるが、神明造は、当初から御神体である神鏡を奉安するという目的からできたものであるから大社造とはおのずとその目的を異にしている。その構造は倉であるが故に、床は高くして出水にそなえ、通 風もよい。内部には間仕切りも天上もない。入口は正面に1つ重厚な扉を有ち、柱は正殿を始め付属の社殿や門垣に至るまで、礎石の上に据えず、すべてその根本を地中に掘立てている。しかしながら、堀立柱は原始時代の竪穴住居の特色だからと言うので、古い時代の形式をそのまま伝えているのだと思うのはやや早計に失する。奈良時代の平城京も堀立柱なのであり、一般 庶民の住居にあってはさらに時代が下がっても、堀立柱のままであったのである。
神宮正殿の高覧の上に付けられた、黄・赤・黒・白・青と5色の居玉 の色彩は、誠の荘厳華麗であり高貴姓を感ぜしめずにはおかない。この宝珠は唐朝建築の影響だといわれ、またその通 りであろうが、こういう事実は堀立柱の下限という問題も併せて、神宮の建築は一般 にいわれているように古代そのままの姿を今日に伝えている、とは一概に言いきることのできないものを覚えるのである。様式としては、大社造が最古の神社建築なのである。
大社では、妻側の中央の柱を宇豆柱と言い、高い棟を支える棟持柱の役を担っていたが、神宮では両側に棟を直下に支える棟持柱が他の柱よりも太く、建築の壁から少し離れて独立にて立ち、棟木をうける先端は建築の側にわずかながら傾斜して、神宮正殿をして一段と荘厳ならしめている。香川県出土銅鐸の高床建物にもこの棟持性は見ることができるので、1〜2世紀の建造物の手法をうけるものだという説があるが、しかしこの神明造りの棟持性は、力学的に言ってそれほど機能を有つものではない、と言われている。ところが、高床式の倉が校倉(アゼクラ)造りであったとすると、校倉造りでは甍の張り出した部分の荷重は壁に直接かかるが故に、別 に棟を支える手段として棟持性が必要になる。したがって、神宮正殿の建てかたは、校倉造りの遺制ということになるのである。
以上のような次第で、神宮正殿は、古制が純正に保たれていることはこれを認めねばならぬ としても、それも式年遷宮制度の創められたという天武天皇の御代まで遡って考えられるが、これをさらに遡らせての遠い昔の遺制を忠実の伝えていると言うのは、危険にすぎると思うのである。 神社建築としては、わが出雲大社の方が古い形式を踏襲している、と私は思っている。
神社建築と言えば、直ちに人は神明造を思いうかべる。家庭内の神棚もまた、神明造様式のものが最も多い。しかしながら、神明造は江戸時代までに全国に4社あるのみであって、明治の時代を迎えて、神明造は全国的に行きわたるようになったのである。このために古来からの社殿も、時代の流行に幻惑され、神宮の形式に追随して改築されたものが少なくはなったことは、今から思えば遺憾のことであったと言ってよい。

◎大社造の発展
上代にあたっては神の社は、即ち住居から発展したのであって、天地根元造を一歩進めた原始家屋に形式で、出雲大社本殿がまさにその適例であった。
この、住居建築の妻入のまま改善の工夫をこらしたのが、大鳥造の本殿形式である。大阪府堺市鎮座の大鳥神社は切妻造妻入、周囲には椽も勾欄も欠くきわめて素朴な印象を与える。本殿内部は中央の柱がなく、内陣と外陣を仕切り、入口は中央にとる、言わば大社造の延長において考えることのできる様式を持つ。そしてこの内陣と外陣とを前後に1間ずつ拡張し、大鳥造りの方形の平面 を長方形にひきのばしたのが、住吉造である。
こうした妻入の形式に対し、平入の手法をもつ神明造は、神鏡を収蔵する倉の形式を踏むものとして、住居から展開を見せた大社造以下、大鳥造や住吉造とくらべ、性格を異にする神社形式であることが、理解されるであろう。
そして起源を異にするこの2つの系列が基調となって、平安時代以降それぞれ発展を見せて、春日造や八万造、さらには権現造等々となって行くのである。

▲このページのトップへ戻る

 
藤本木工芸 〒699-0751 島根県出雲市大社町杵築西2306 TEL.0853-53-2514  Copyright(C) Fujimoto mokkougei All Rights Reserved.