出雲大社あれこれ|出雲大社の神棚は藤本木工芸へ

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出雲大社についてご紹介します。
 
◆縁結びの神様“出雲大社”
出雲大社は大国主神を祭神とします。 年に一度、旧暦10月に全国から神々が集まって、 人々の縁を会議すると言われています。 “神の国”出雲らしく神在祭、大祭礼などの神事が 年72回も行われています。 本殿は高さ24mで、神社建築の代表であります。
◆古代神殿の発見
平安時代には天空を突き抜けるほどの高さ(なんと48m)を 誇っていたとされる古代出雲大社。 出雲大社境内遺跡から“3本組の巨大な柱”が出土し、 巨大本伝が実在したことが現実味を帯び始めました。 右の写真は発見時の展示資料として制作した “ミニチュア古代出雲大社”です。
◆出雲大社
出雲大社(いずもおおやしろ、いずもたいしゃ)は島根県出雲市にある神社である。式内社(名神大)、出雲国一宮で、旧社格は官幣大社。近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。 祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。 古来より「国中第一之霊神」として称えられ、その本殿は「天下無双之大廈」と評された。 縁結びの神様としても知られ、神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日〜17日)。正式名称は「いずもおおやしろ」であるが、一般 には「いずもたいしゃ」と読まれる。
由緒
日本神話によれば、大国主神が天津神に国譲りを行う際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしいと求め、造営されたのが出雲大社の始まりであるという。古代より杵築大社と呼ばれていたが、明治4年(1871年)に出雲大社と改称した。延喜式神名帳には「出雲国出雲郡 杵築大社」と記載され、名神大社に列している。神階は貞観9年(867年)に正二位 まで昇った。江戸時代には社領五千石を有していた。明治4年に官幣大社に列格し、大正時代に勅祭社となった。現在は神社本庁の別 表神社となっている。
創建以来、天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。 現在の宮司は84代国造千家尊祐で國學院大學を卒業後太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格し平成14年(2002年)宮司に就任し翌年神社本庁より神職身分特級を拝受している。 また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。 現在も、天皇家の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。
創建伝承
出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。
大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。(『古事記』)
高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴神に対して、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命をに祀らせよう」と述べた。(『日本書紀』)
所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。(『出雲国風土記』出雲郡杵築郷)
神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。(『出雲国風土記』楯縫郡)
垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であったが、占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)
斉明天皇5年、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』) 伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。 また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。
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◆施設
本殿

現在の本殿は延享元年(1744年)に作られた。高さは8丈(およそ24m)で、これも神社としては破格の大きさであるが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、中古には16丈(48m)、上古には32丈(およそ96m)であったと伝えられる。その伝承より想定される形は大変不思議なもので、空に向かって延びた何本もの柱の上に社が建つというものであった。この想定は東大寺大仏殿(当時の伝承によれば十五丈・45m)や平安京大極殿より巨大であったとされる。これは平安時代に源為憲によって作られた「口遊」で数え歌に歌われている(雲太、和二、京三=出雲太郎、大和次郎、京三郎)ことを元にしている。
16丈の建築物が古代において建造可能であったのかに疑問を呈する意見もあるが、実際に何度も倒壊したという記録があり、当時の技術レベルを超えて建築された可能性は否定出来ない。上古32丈についても、山の頂上に建てられ、その山の高さであると考えれば、不自然では無いという意見もある。 平成12年(2000年)、地下祭礼準備室の建設にともなう事前調査に際し、境内からは勾玉 などの他、巨大な柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)が発掘された。古代社殿の柱ではと注目を集めたが、中世の遺構で現在とほぼ同大平面 であり、柱の分析や出土品からも宝治2年(1248年)造営の本殿である可能性が高まった。
荒垣内摂社
大神大后神社(御向社) - 式内名神大社(同社坐大神大后神社)。大国主の正后・須勢理毘賣命を祀る。
伊能知比賣神社(天前社) - 式内社(同社坐伊能知比賣神社)。大国主が亡くなったときに蘇生を行った蚶貝比賣命・蛤貝比賣命を祀る。
神魂御子神社(筑紫社) - 式内社(同社坐神魂御子神社)。大国主の妻・多紀理毘賣命を祀る。
素鵞社 - 式内社(出雲神社)。父(または祖先)の素戔鳴尊を祀る。
氏社(天穂日命)
氏社(宮向宿彌)
門神社(宇治神・久多美神)
釜社(宇迦之魂神)
十九社(東西に2つ) - 八百萬神を祀る。神在祭の際、神々の宿舎となる。
荒垣外摂末社
神魂伊能知奴志神社(命主社) - 式内社(同社神魂伊能知奴志神社)。神産巣日神を祀る。
阿須伎神社(阿式社) - 式内社。子の阿遲須伎高日子根命を祀る。
大穴持御子玉江神社(乙見社) - 式内社(同社大穴持御子玉 江神社)。子の下照比賣命を祀る。
大穴持御子神社(三歳社) - 式内社(同社神大穴持御子神社)。子の事代主神・御年神・高比賣命を祀る。
上宮(素戔鳴尊・八百萬神) - 神在祭の際、神々の会議所となる。
出雲井社(岐神)
大穴持伊那西波岐神社 - 式内社(同社大穴持伊那西波伎神社)。国譲りの際に事代主のもとに使者として向かった稻背脛命(いなせはぎのみこと)を主祭神とし、白兔神を配祀する。
因佐神社(建御雷神)
湊社(櫛八玉神)
下宮(天照大御神)
大歳社(大歳神)
祓社(祓戸四柱神)
その他
神楽殿の南側には高さ47mの国旗掲揚台があり、日本国内で最大の日章旗(日本の国旗)が掲げられている。国旗の大きさは畳75枚分、重さは約50kgに達する。通 常は朝掲揚され夕方に奉降されるが悪天候時にはこれを行わない場合がある。
神楽殿の東側には唱歌「一月一日」の歌碑が建っている(同唱歌を作詞した千家尊福は出雲大社第80代出雲国造である)。
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◆文化財
建造物
国宝
 
「出雲大社本殿(附 内殿、棟札)」 - 1900年(明治33年)4月7日重要文化財(当時の国宝)に指定。1952年(昭和27年)3月29日国宝に指定。
重要文化財
 
「出雲大社」 - 2004年(平成16年)7月6日指定。重要文化財「出雲大社」として、以下の社殿21棟および鳥居1基が一括指定されている。
 
+ 楼門
+ 神饌所(2棟)
+ 玉垣 + 摂社大神大后(おおかみおおきさき)神社本殿
+ 摂社神魂御子(かみむすびみこ)神社本殿
+ 摂社神魂伊能知比売(かみむすびいのちひめ)神社本殿 + 摂社門神社本殿(2棟)
+ 八足門(やつあしもん) - 蛙股の「瑞獣」や流麗な「流水文」などの彫刻は『左甚五郎』の作と伝えられる。
+ 観祭楼及び廻廊
+ 西廻廊
+ 瑞垣
+ 摂社素鵞(そが)社本殿
+ 摂社氏社本殿(2棟)
+ 末社釜社本殿 + 末社十九社本殿(2棟)
+ 宝庫
+ 会所
+ 銅鳥居 - 出雲国造家と同じく、天穂日命を祖とする 長州藩第3代藩主 毛利綱広(大江氏)の寄進(寛文6年、1666年)。
美術工芸品
国宝
 
「秋野鹿蒔絵手箱」
重要文化財
 
赤糸威肩白鎧 兜 大袖付
太刀 銘光忠(附 糸巻太刀拵)
紙本墨書後醍醐天皇王道再興綸旨(元弘三年三月十四日 )
紙本墨書後醍醐天皇宸翰宝剣代綸旨(三月十七日)
紙本墨書宝治二年遷宮儀式注進状(建長元年六月)
硬玉勾玉
銅戈
無形文化財
◎選択無形民俗文化財「出雲の火鑚習俗」
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